理解されたと感じると、そこに居場所ができる ~学校での居場所ができたときのこと
学校のなかで、はじめにひとりの先生が理解してくれた。
それで、わたしは安心できた。
安心できたら、そこに居場所ができた。そして、その居場所は少しずつ広がっていった、というおはなし。
小さいころのわたし
いつも、きょろきょろしてる。落ち着きがない。
変わった子。子供らしくない子。問題がある子。
これが、小学生の頃におとなから言われていたこと。
授業中には隣の子に話しかけて怒られたり、眠りに逃げて笑われたり。
校内散歩にでて用務員さん(あ、いまはいないのかな)に捕獲されたりしてた。
学校の中にはわたしの居場所がないと感じていて、早く学校が終わるのを待っていた。
学校が終わったら、友達や妹と、家に戻らず畑や山や田んぼで遊んだ。それは、とても楽しかった。友達からは、変わった子といわれるが、あまり深刻に気にしたことはない。
わたしに落ち着きがない理由
落ち着きがないことについて、私なりには理由があった。
たくさんのものがそこにあって、たくさんの情報が流れ込んでくる。
すれ違うひとのきもちが、エネルギーとしてあふれてくる。模様や文字は色と光をだすし、樹や草や星のゆれるこえが音やひかりで視覚を通り抜けていく。
ありとあらゆるところに「声」や「色」があふれていた。
そして、今ある世界と重なるように、色と光と音が幾重にも重なって存在する。
その世界は、学校の授業以上におもしろそうで。どうして、落ち着いて授業に参加していられる?
わたしの知りたいものは、そこにないのに。どうして、一緒に授業を受ける必要がある?
家族以外で見るはじめての理解者
落ち着かないのは声や色がたくさんみえるからで、学校の授業には私の知りたいことがない。
この話をはじめてまじめに聞いてくれた先生は、わたしが落ち着いていられない理由を理解してくれた。私は、少しほっとした。
そして、その先生には、あなたは授業を受けなくてもいい。けれども、授業を受けている「ふり」をする必要があるといわれた。
学校は、現実を生きるために必要なルールを勉強する・体験するための場所で、大人になるまでにそのルールを理解したほうが気楽に過ごせると教えてくれた。
先生はわたしの話をきいてくれたので、この先生の話も信じたいと思った。
そして、先生が言ったように、授業を受けている「ふり」を続けてみた。机に座って授業と関係のない好きな本を読む。先生が持ってくる本も週に2冊は読む。そうすると本を好きなだけ読んでいられるので、気が散ることも減ってきた。机のところで授業に参加するふりを続けるうちに、すこしずつ教室の中に居場所ができてきた。
居場所ができると、以前ほど、周りの大人から「問題がある子」といわれることも減ってきて、以前より気楽な学校生活を過ごせることになった。
そう思えたら、学校の中に居場所が少しずつ増えていった。
理解されたら、安心した ⇒ 安心したら居場所になった
じぶんを理解してもらえた。そう思ったら、安心した。
安心したら、そこにいてもいいかな、と思えるようになった。
理解してくれた人に、自分もこたえたいと思ったら、がんばれた。
これが、わたしの居場所ができた経験です。
安心できる場所でないと、そこを「居場所」として確認しづらいのだと思います。
そして、「理解者」の近くにいることで、安心ができて居場所ができるのではないでしょうか。
理解者を探すことが「居場所」につながることもあるよ。
理解者が増えていったら、居場所も増えていくよ。
いまは、そう思っています。
居場所増えたら、お気楽でいることが簡単になってきた気がする